黒川支店 三品 源成(もとなり)

 私の名前は両親の仲人の方が日蓮宗のお寺のお坊さんに相談して名付けて頂いたそうです。

初対面の方には正しく呼んでもらう事はほとんどなく、小中学生の頃は、あまり氣に入っていませんでした。でも周りから「良い名前だね」と言われたり、文字の意味を知るにつれ好きになりました。

これからも名前に負けない自分をつくっていく為、何事も源(原点)を見つめ、精進する事で成し得るよう心掛けます。

 

金山支店 落合 紅星(こうせい)

 名の紅星(こうせい)に由来は特別ないそうです。ただ父親が「紅」の字を使う時、祖父から他の字を使えと反対されたそうです。

でも父は強引に押し切ったと言っていました。祖父が反対した理由は、当時「血の色、不吉な色」と悪いイメージが強かったからだそうです。

最近は「情熱、朝陽」等の意味で使われるようになり、良いイメージがあるので、嬉しく思います。私は「くれないのほし=情熱あふれ輝く星」と捉え、人生を真っ直ぐ生きていきたいと考えています。

 

西春支店 加藤 健一

 健康第一でたくましく、わんぱくに育ってほしいと、この名前が付けられました。それと一人目という事で「一」という字を入れたそうです。

その甲斐あってか、今のところ健康です。これは名前のおかげなのかもしれません。子供の頃は、ありきたりの名前なのであまり好きではなかったですが、今は氣に入っています。付けてくれた親に感謝しています。


港支店 柳  信義(のぶよし)

 私の名前の由来は、親が何をつけていいのか迷っていた時、母親の実家の近くに今では誰でも知っているある宗教団体があるのですが、実家が信仰していたので、教祖に頼んで信義という名前を頂きました。

 私自身読み方はあまり好きではないのですが、文字自体は氣に入っています。ただせっかく頂いたのにお礼参りに行っていないので、一度お参りしてみたいと思っています。

 

犬山支店 小島 喜久雄(きくお)

 今年86歳になる母に、私の名前の由来を聞いてみましたが、特に意味などを考えた訳ではなく、何となく名付けたという返事でした。

自分で調べてみると喜はよろこび、久は時間的に長いこと、雄は男らしいという意味でしたので、男らしく生き、喜びのある人生にという意味かなと思います。名前に喜怒哀楽の一文字が入っているからか、感情豊かな人間であるような氣がします。

 

中川支店 徳村 政守(まさもり)

 私の名付け親は父です。父の名前が政伸で叔父達も全て政の字が付いている事で一番目の字が決まりました。守の字は親兄弟を大切にし、優しく守れるようにとの願いが込められています。

 まだ名前負けしていると思いますので、名前に負けないように精進していきます。

 

大高支店 大野 三喜郎(みきろう)

 両親から聞いた由来は三番目の子供だったから「三」、母親の名前から一字とって「喜」、男の子だからと父親の考えで「郎」と名付けたと聞きました。上二人が男で、3人目は女の子を期待していたみたいですが残念ながら男だったため、適当に付けたという話です。

 自分なりの考え方で人生の中で大きな喜びが3回味わえれば幸いかと期待しています。

 

岡崎支店 中村 康輔(こうすけ)

 私の康輔(こうすけ)という名前の由来を父に聞いたところ、「康」は父の名前の敏康から一字使いたかったのと、健康であるようにと願いを込めたそうです。「輔」は人を助けるとか、支えるという意味があるそうです。

 今の自分がこの名前に見合った自分かどうか考えてみると、健康ではありますが、人を支えるどころか、いろんな人に助けられてばかりで、まだまだ修行が足りないなあと思います。

 

春日井支店 支店長 井潟 秋成(しゅうせい)

 「いがたしゅうせい」と読みます。変わった名前です。

恐らく同姓同名は世界に一人もいないと自負しています。母親に聞いた話ですが、実りの秋に成長するようにという想いが込められているそうです。

また、祖父が春一(はるいち)という名前で季節を表す文字を受け継いだとも聞きました。

 なかなかスンナリとは読んでもらえず、子供の頃は恥ずかしかったですが、今ではとても氣に入っています。

 

四日市支店 後藤 孝教(たかのり)

 私の名前は、祖母が当時信心していた教会の会長さんに名付けていただいたそうです。

親孝行を教え広める人になってほしくて両親も賛成したそうです。小さい頃は、反抗期もなく親孝行な息子?でしたが、跡取りの長男でありながら家を飛び出し四日市に移り住んでしまいました。

 親不孝の見本のような行動です。子供が成長するにつれ、親のありがたさを感じ、今からでも名前負けしない生き方をしたいです。

 

三好支店 小島 民夫(たみお)

 私は両親を15年前に亡くしており、正直自分の名前の由来を聞いた事がありませんでした。でも今は自分の名前がとても氣に入っています。

私の母は幼い頃から病気がちで何度も入退院を繰り返していました。そんな母が付けてくれた名前をこれからも大事にしていきたいと思います。

もし私に子供ができたら、どんな名前をつけるのかと考えさせられました。

今現在私は独身で、恋人募集中です(笑)。

 

本社営業推進本部 金山 健太

 小さい頃より名前で呼ばれる事が多く、自分でも呼ばれる事に抵抗もなく、逆に親近感を感じます。

この名前を付けてくれた親には、感謝しています。子供の頃、名前の由来を聞いた事があります。健康でたくましくという意味だと聞いていましたが、改めて聞いたところ、体も心も健やかに、そしてしっかりと地に足をつけて欲しいという願いがあったと知りました。

現実は…大宝に入社し、学び考える事を教えていただいています。地に足がつけられるよう自分の芯棒を築いていきます。

 

車輌 江藤 博信(はくしん)

 ハクシン?何だと思いますか?実は私の名前です。

漢字で書くと「博信」、普通は「ひろのぶ」が一般的な呼び方だと思います。

電話で「ハクシン」と言うと、どこの国の人?と間違えられた事もあります。

また、親戚にも父母や姉にも「ハクシン」と呼ばれた事のない悲しい名前なんです。でも一度聞いたら忘れられない名前だと思います。

ただ一つ謎なのは、どうしてこの読みかたなのか、今となっては分かりませんが、父の付けてくれた名前に誇りを持っていきます。

 


 

黒川支店  野島 浩司

 GWの思い出と言っても、あまり記憶にありません。

私が子供の頃は、5月4日は祝日ではなかったし、土曜日は半日授業があった為「飛び石連休」と呼ばれていました。当然泊まりがけの旅行の話もなく、友達と遊ぶ事がほとんどでした。そのためGWに特別な思い出は残っていませんが、唯一4月29日は毎年、法事で大阪の枚方市に行っていました。子供の頃に、よく面倒を見てもらっていた叔母の命日なのです。若くして癌で亡くなり、子供ながらにショックを受けたのを覚えています。

以来4月29日は家族揃って遠方へのドライブ(目的は違いますが・・・)と親戚が集まる機会となり、それが子供の頃の思い出です。

 

金山支店 中村 徳巳(とくみ)

 小学生の頃となると40余年前。その頃親は、朝早くから夜遅くまで仕事をしていたので親と休日を過ごす事はほとんどなかったように思います。

私たち子供は、兄弟や友人と野球をしたり、釣りをしたりして夕暮れまで遊んでいました。GWという言葉は、その頃なかったと思います。

 連休の思い出は、魚釣りで祖父から仕掛けの作り方、ハリの結び方、糸の網ぎ方、エサの事、魚の事、釣り方のテクニックを教わりました。連休中毎日魚釣りに行って、アジやイサキを沢山釣りました。

 その後何度も釣りに行っていますが、その時学んだ事は、今も忘れずに思い出として残っています。

 

西春支店 長谷川 昌城

 子供の頃は、家族と日帰りでどこかに出掛ける事がすごく楽しみでした。

日帰り旅行でしたが、静岡方面へ苺狩りに行って、兄弟で苺の食べ比べを競争したことが思い出に残っています。帰り道、高速道路で渋滞にハマッてしまい、車内で兄弟ゲンカになってしまいました。

その頃は、たわいもないことでよく兄弟と口ゲンカをしました。今も渋滞にハマるとイライラする時がありますが、そんな時は心を落ち着け、どんな時にも冷静に運転できるようにしています。

 

港支店 水谷 豪志(たけし)

 大人もそうですが、子供にとってGWという大型連休は、どこかに出掛ける楽しみと期待にワクワクするものです。

数々の思い出の中で、初めて釣りに行った時のことを思い出します。釣りに行った場所は名古屋港と近場でしたが、初めて自分で魚を釣ったという子供ながらの自慢、釣った魚はハゼで、家に持ち帰り母親に天ぷらにしてもらいました。自分で釣った魚だと家族に自慢氣に話しながら、おいしく食べたのを思い出します。これといって特別な事をしなくても、子供の頃の思い出はずっと残るものです。

今年生まれた息子にも、楽しいGWの思い出ができる様に、これからも家族で楽しんでいきます。

 

犬山支店 伊藤 嘉紀(よしき)

 私のゴールデンウィークの思い出は、サッカーの合宿です。

小学校3年から中学校3年まで、毎日サッカーボールを追いかけていました。試合で活躍したいので、休まず練習した事を覚えています。合宿は修学旅行みたいで、毎年わくわくしていました。

学生の頃にはサッカー一筋で頑張った結果、一度だけ県大会で3位になりました。あの時の感動と、仲間と笑い合った時間は生涯忘れることはありません。もうすぐ父親になります。奥さんと生まれてくる子供の為に、仕事も頑張ります。

 

中川支店 長谷川 達志

「ゴールデンウィーク」私が子供だった頃には、まだこんな洒落た呼ばれ方はされていませんでした。(私が知らなかっただけかもしれませんが・・・)

高度成長期のど真ん中、田舎の「昭和のガキ」を地味にエンジョイしていただけの時期でしたが、一つだけ思い出があります。

39年前1970年の大阪万博です。当時は小学2年生だったのですが、日本館の「リニアモーターカー」、アメリカ館の「月の石」、三菱未来館に松下館、動く歩道に太陽の塔、書き始めるとキリがありませんが、子供ながらに自分達が大人になった時の科学の進歩に目をキラキラさせ、胸をワクワクさせていたのを、今でも鮮明に覚えています。

 

大高支店 加藤 大典

 僕の子供の頃のゴールデンウィークの思い出は、家族みんなで知多に潮干狩りに行ったことです。

 僕はバカ貝とあさりの違いが分からなくて、お父さんに教えてもらい、それからあさりをたくさん採りました。そして家族みんなで採ったあさりを、家で味噌汁や酒蒸しにして食べました。それから潮干狩りは、毎年恒例の行事になりました。

 今は自分の家族を持ち、子供も昨年生まれたので、今年はみんなで潮干狩りに行きたいと思っています。

 

岡崎支店 杉村 直哉

 子供の頃のゴールデンウィークの思い出を振り返ってみると、親に蒲郡にある「こどもの国」に連れて行ってもらった事があります。

こどもの国には、広い芝生の広場や汽車などがあって、子供にとって最高の場所です。男4人で育った僕たち兄弟も楽しく、はしゃぐ事のできる場所でした。僕も結婚して、いつか生まれてくるだろう自分の子供も、この「こどもの国」に連れていってやりたいと思います。

 

春日井支店 永井 幹大(みきひろ

 ゴールデンウィークの思い出がなかなか思い出せず、母親に聞いたところ「覚えてないなら、あんたをあちこち連れていかんでもよかったわ」と言われてしまいました。

でもいろいろと教えてもらうと、小学校の頃インスタントラーメンが好きだった私は、キャンプに連れて行ってもらったときに、せっかく作った料理を食べずに万が一のために用意していたインスタントラーメンが食べたいとわがままを言い、一人でインスタントラーメンを食べていたそうです。

 今にして思うと本当に申し訳ないことをしました。

 

四日市支店 高木  豊

 40年も前の事ですが、私が小学生の頃、地区の子供会で御在所岳と湯の山温泉に行った事があります。

四日市駅から電車に乗って、終点の湯の山温泉で下車し、バスに乗り換え御在所ロープウエー乗り場へ。(山頂までは10分位だったと思いますが、とても長く感じた氣がします)

湯の山鹿の湯ホテルのお風呂はとても氣持ち良かったのを思い出します。

中学生の頃にも2回ほど登山道を歩いて行った事もあります。その後結婚し、子供たちが小学校の高学年になった頃、ボーイスカウトでも行きました。

 どれもとても良い思い出です。最近は忙しい毎日ですが、また家族で御在所へ行きたいと思います。みなさんも三重県に遊びに来てください。


三好支店 原田 貴志

 僕は、この地域では言いにくいのですが、中学生の頃からプロ野球「読売ジャイアンツ」を応援する為に、ほぼ毎試合球場に行っていました。

GW中の約10日間は、ほとんど東京ドームで開催されるため、自分が東京の住民になってしまったかと間違えるぐらい行っていました。

 一番の思い出は、平成5年5月2日、対ヤクルト戦で当時18歳で新人の松井秀喜選手が高津投手から鮮やかにライトスタンド上段へ打ち返した、プロ初ホームランを見た事です。その時の打球の速さには、かなり驚かされました。その後、松井選手の数多くのホームランを見届けましたが、その中でも特に強く印象に残っています。


本 社 営業推進本部 星野 一樹

 GWだったのか、そうでなかったのか覚えはありませんが、小学生の頃、蒲郡の竹島に家族でドライブに行った事があります。

竹島に続く橋を渡ると、岩場には小魚やカニ、貝、ヤドカリなど海辺の生物がたくさんいて、妹と二人で夢中になって採っていました。

最初はおとなしく採っていたのですが、段々石を投げて水しぶきをかけたり、岩場を走ったり、飛び回ったりするようになりました。ふざけているうちに私が一段高い岩場で足を滑らせ、海に転落。幸い腰くらいの深さだったので溺れる事はありませんでしたが、全身ズブ濡れになってしまい、それを見ていた親父に大目玉をくらい、着替えも持っていなかったので、他にどこにも寄らず早々に家に帰ってきました。懐しい思い出です。


車輌部 班長 山村  豊

 私のGWの思い出は、専門学校の時の事です。

当時私は、中日ドラゴンズの私設応援団に入っていました。その為ナゴヤ球場の試合は全試合、観戦に行っていましたが、ある年のGWに食中毒になってしまい観戦に行けない状態になってしまいました。しかし、無理をしてナゴヤ球場に行きました。もちろん野球を観る余裕もなく、球場のトイレに居た時間のほうが長かった思い出が・・・。(汚い話ですみません)

先日、久しぶりにナゴヤ球場に行ってきました。

大島選手の打球がダイレクトで頭に当り、医務室に運ばれた事や、ドラゴンズの優勝、色々な選手の引退など、今でも当時の事を色々思い出します。

 
 

 


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