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父が79歳で亡くなってから、もう14年になる。
戦争を体験したいわゆる職業軍人で厳格そのものの人だった。
でもどんなに叱られても殴られた記憶は兄弟3人共一度もない。ただ居るだけで存在感があった反面、心優しさも兼ね備えていたので、決して嫌いではなく、むしろ大好きだった。
常日頃「母親の言う事は絶対に聞きなさい」「弱い者をいじめるな」「嘘をつくな」と口酸っぱく言われてきた。その中で本当の優しさとは何かを自然に教えてくれたような氣がする。
高校を卒業した時「これからの自分の生き方は、自分で決めろ」と一言。
今思うと喜びより責任と不安の方が大きかった。私も親となり、父が教えてくれた思いを子供に伝えています。
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父と私は、特に仲が悪いわけではありませんが、すれ違いの生活が多いため、父から特別な言葉をもらった記憶はありません。
ただ私に直接かけてくれた言葉ではありませんが、とても印象に残っている言葉があります。父の父、つまり私の祖父が亡くなった時、初めて父の泣き崩れる姿を見ました。
その時の父の言葉「親孝行してやれなくてゴメン。もっともっと幸せに過ごさせてあげたかった」。
時々思い出しては、私も家族について考えています。
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私の父は、この5月で還暦を迎えました。時間の経つ早さを身に染みて感じます。
父は、コンピューターソフト関連会社に長年勤めて家族を支えてくれました。経済的に苦しくても、家族楽しく過ごしていました。
私は小さい頃から勉強が苦手で、父を悩ませていました。高校受験の時、志望校受験が難しく諦めた方がいいのかと悩んでいた時、父から「諦めずに、合格できるよう頑張れ」と励まされ、私も一所懸命勉強し無事志望校に合格する事が出来ました。
あの時の父の言葉がなければ、今の私は無かったかもしれません。苦手な事でも最後まで諦めないで頑張る事を教えてくれた父に感謝の氣持ちでいっぱいです。
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私が父親の影響を一番受けたのは、小学校に入学した頃で、当時父は岡崎市の市議会議員で、入学式の来賓で祝辞を述べていました。
私は息子として、人の前で正々堂々と話をする事を教えてもらいました。
私にとって父親は、全ての面に於いて目標であり、教師である為、多くの助言をもらいました。
就職してからは、立場での話し方を教えてもらったのですが、その中で今も頭に残っている事は「怒るのと、叱るのは違う。怒っていては人を潰してしまうが、叱るのは人を成長させる」という教えです。
今後もこの父親の教えを守って行動していきます。
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小さな頃から父が恐かった私は、父の言う事は何でも聞いていたというより、言う通りにしてきました。
小学校の時ソフトボールクラブに入ったのですが、球技が得意ではない私は、いつもコーチに怒られていました。
そんな時、付き添いで来ていた父に助けを求めようとして、父の方を見ても何も言ってくれず放って置かれました。
何も言ってくれない父に「何で助けてくれないの?」と聞くと「何でも助けてもらってはダメだ。自分でどうするか考えないとダメだぞ」と言われ、自分が甘えていた事に氣づき、時には父のように厳しくする事が大切だという事を教わった氣がします。
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2年前に他界した父は、なんでも器用に出来、誰にでも優しく滅多に怒らない人でした。
子供の頃から大勢の弟や妹達の面倒を見て、料理や大工仕事など家の事も親に代わってやってきたそうです。
料理店を経営していた父は、誰にでも本当に優しく、僕自身も滅多に怒られた事がなく、手を上げられたことは一度もありませんでした。
そんな父を物心つく頃から見てきて、人に対していつも優しく接していれば、周りの人達も悪い事を言うこともなく、幸せに生活できるんだ、ということを父が亡くなるまで教わった事が何よりも父を誇りに思うし、尊敬する所です。
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私が子供の頃の父は、朝早くから夜遅くまで一所懸命働く忙しい人でした。でもそんな忙しい中、私達家族を旅行に連れて行ってくれたり、自転車の乗り方を教えてくれたりと、家族の事を大切にしてくれていました。私も学校を卒業して、社会人となり、結婚して家族を持ちました。
今思い返してみると、父は口ではあまりうるさく言いませんでしたが、自分自身の働く背中を私達子供に見せる事によって、働くことの大変さや大切さなどを教えてくれていたのかもしれません。
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私の父は床屋をやっていて、私が小さい頃はなかなか、かまってもらう事はありませんでした。
そのため、遊びも勉強も強制されることなく、私の自由にさせてもらえたと思います。しかし自由と一緒に責任があることをよく教えてもらい、自分に責任を持って行動するようにと、言い聞かされました。
私も今年で59歳になりました。今思うと床屋を50年近くもやってきた父をとても誇らしく思い、一所懸命続けることのすごさと大切さを感じます。
これからも父を見習い一所懸命頑張っていきます。
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私の父は、働くことがすべての様な人です。
父がのんびりしている所を、私は見たことがありません。
家族のために働き、今は病院と家を行ったり来たりの生活をしています。
父が私の今の年齢の時どんな氣持ちでいたのか、今私も少し分かる氣がします。働くことが人間として一番大切で、家族を守らなければいけないということを無言で父に教えてもらいました。
健康に注意して、元氣に大宝で働いていきたいと思います。
仕事に仲間に支えられていることに感謝します。
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私が小学校の時、ささいな事でクラスの女の子に手を上げてしまった事がありました。
その事で、先生にひどく怒られ、何度も何度も殴られて、泣きながら家に帰りました。その晩父が帰宅し、当然叱られると思っていましたが、違いました。「女の子は弱いから、絶対に手を出すな」と言われ、子供心ながらに納得し、反省した覚えがあります。この事に関しては、今も守っています。
他にも数々のトラブルを起こす度に、道標を作ってくれましたが、「最後の決断は自分自身で…。」と教えられている氣がします。
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父は宮崎県生まれの九州男児、仕事は塗装業、いわゆるペンキ屋さんです。
子供の頃、姉とよく父の腕にぶら下がり喜んでいた事を思い出します。私が20歳の頃、兄弟3人と父、職人さんの5人で仕事をしていました。
三男の私が任されていた事は、兄達にあれ持って来い、これ持って来いと、もっぱら小僧仕事で、やる氣もなく、仕方なくやっていました。
ある日父と二人で仕事をした時、「いいか、仕事にはコツがある」とハケを片手に手際良く塗りながら「お前はもっと欲を持て、欲を出せ」と言われました。
今考えると、仕事は自分で考え行動してコツをつかみ、やり遂げるという思いを持つことが大切で、「欲を持て」と言われたのだと思います。これは仕事が変わっても同じだと考えます。
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父は日本が敗戦した時、今の中国に居て旧ソ連軍にシベリアにある捕虜収容所に連行されたそうです。
そこでは、毛布1枚、食事も黒パン少量しか与えてもらえず、強制労働で仲間が1人また1人と飢餓と寒さで亡くなっていく中、父はなんとか生き残り現在に至っています。という訳で私が小学生の頃、山や川でマムシやその他の小動物の捕らえ方などを色々教えてもらいましたが、今となっては、ほとんど忘れてしまいました。
山の中は特大のムカデや氣味悪い虫のオンパレード、川に行けば足を滑らせ、氣が付けば水の中、ということがあり、自然はあまり好きではありません。
今考えれば小学生をマムシのいる場所へ連れて行く父親もどうかと思いますが、その当時はそれなりにタメになりました。
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