金山支店 宮崎  利男

 私の生まれは東京都墨田区、今話題のスカイツリーの近くです。

あの場所は貨車置場で子供の頃よく見に行きました。

 また浅草も近くで、歩いて『花やしき』という入園無料の遊園地に遊びに行き、その中の少しも怖くないお化け屋敷(無料)によく入っていました。

 東京と言っても当時の道路は舗装されておらず、トイレは汲み取り式、路面電車も走っていました。

 人々ものんびりしていたし、下町だったせいか人情もあり、良い世の中だったと感じます。今とは時間の流れも違った懐かしい思い出です。

金山支店 加藤  勝

 昭和時代の思い出というと、少年時代の事を思い出します。

しょうや(メンコ)、こま回し、釘刺し、カン蹴り、宝踏みなどで遊び、プロ野球スナックや仮面ライダースナックに付いているカード集めに熱中し、プロレスのジャイアント馬場やアントニオ猪木、ビルロビンソン、キックボクシングの沢村忠、プロ野球の長島や王選手に憧れ、テレビでやっていたローラーゲームや歌手の天地真理、南沙織に夢中になっていました。

勉強はあまりせず、毎日過ごしていました。遊びの中でも『手打ち』という野球のルールで、テニスの軟式ボールを握り拳で打ってやる三角ベースで毎日のように日が暮れるまで、時間を忘れて遊んでいました。

 

黒川支店 川浦 茂治

 昭和50年代の私は、小中学生でした。

特別な思い出はあまりありませんが、小学生の頃から、毎日のように野球をして遊んでいたのを思い出します。
 父親にグローブを買ってもらい、学校の部活動で野球をし、休みの日にもクラスの仲間たちとずっと野球をしていました。

毎日野球ばかりで、まともに勉強などしたことはありませんでしたが、私の周りの仲間達もみんな、そんな感じでした。

黒川支店 中野  忠

 昭和30年代の思い出で、我が家にカラーテレビが来た時の事が強く印象に残っています。

東京オリンピックをカラーで見る為に、それまでの白黒の真空管を使ったテレビを買い替えました。

 50歳前の人は、真空管と言われても解らない人が大半だと思いますが、当時はラジオもテレビも半導体の代わりとなる真空管を使って声や画像を流していました。

その後トランジスターになり、今ではICチップになって、どんどん小型化され性能も良くなりました。

 物を使いこなす前に新しい物が次から次へと出てくる、この50年の間の進歩は本当に凄いと思います。

 

港支店 緑川  肇

 僕の懐かしの昭和時代と言えば、昭和57年頃の小学校の夏休み、毎日のように数人の友達とカブトムシやクワガタムシを捕りに行ったことです。

茨城県水戸市で過ごしていた時に昆虫採集にハマっていました。

木を蹴ったり、揺すったり、あの手この手で捕まえに行っていました。

 当時の僕はクワガタムシが好きで家に帰っては虫カゴに入れて、飽きることなく眺めていました。

 あの頃を思い出すと、また捕まえに行きたいと思いますが、今は昆虫類がなぜか怖くて触れなくなってしまいました。

港支店 倉内 直人

 あまり良い思い出ではないのですが、何と言っても覚えているのが小学校低学年の時に給食で味わった脱脂粉乳です。

今の牛乳と違い、いかにも粉っぽくて冷めてくると湯葉のような膜を張ってマズくなるので、注いでもらったら出来る限り早く飲み干したものです。

中にはどうしても飲むことが出来なくて、給食の後の掃除をする時間が始まっても残されて食べている子も、ちょくちょく見ました。

 今となっては非常に懐かしく思えます。


西春支店 水谷  篤

 私の懐かしい思い出は、小学生の頃毎日野球をやっていた事です。

ちょうどテレビで「巨人の星」が放送されていて、ほとんどの男子がハマっていました。

 学校から帰ると近所の広場で暗くなるまでボールを追いかけていました。集まってくる子供達も1年生から6年生まで様々で、ルールも低学年の子は前に飛んだらヒットなど、学年によってルールを変えてみんな夢中でした。

上級生に教えてもらい初めてグローブを買ってもらった時は嬉しくて、枕元に置いて寝た事を覚えています。

 今ではその広場も駐車場に変わり、こんな狭い場所でよくやっていたなぁと感心します。

西春支店 水谷  篤

 昭和の思い出の中で一番印象に残っている事は、私が小学校4年生の時に初めて我が家にテレビが入ったことです。

それまで娯楽といえば一家でラジオを聞くことぐらいでしたので、学校から帰ると宿題そっちのけでテレビにかじりついていて親からよく叱られました。

一家に一台しかないのは当たり前で、兄弟でチャンネル争いもよくしました。

西部劇などが大好きで夢中になって観たものでした。

生まれた時から何でも揃っている現代とは違い、物のない時代を経験してきているので物は人一倍大切にします。

 物は少ない時代でしたが、その時代に生まれて幸せだと思います。

 

中川支店 石山  晃

 昭和43年生まれの私の記憶の片隅にある名古屋の風景では、近所の細い路地はまだ未舗装の砂利道でした。

そして私の記憶におぼろげに残る父の最初の車は三菱コルト。

(まだドアに三角窓があったような・・・?)以来どこにでも家族を運んでくれる車の存在と縦横無尽に運転することができる両親は、私の憧れと尊敬の対象でした。 

 免許取得後父の車を借り、一人で運転した時の感動は今でも忘れられません。
 道路は全て舗装され、信号やガードレールが整備された今では、道路で遊ぶ子供の姿も減りましたが、私は両親のような尊敬される運転が出来ているのでしょうか?

中川支店 岩間  信彦

 私が若かった頃、不良っぽい男の子の間ではリーゼントが流行っていました。

私も当時キャロルの矢沢永吉(エーチャン)にハマっていてポマードを塗って前髪を少しでも長く出すように苦労していました。(セットするのに30分かかることも・・・)ポケットにはいつもクシがあり、セットが乱れるとすぐにセットし直していました。

あの頃の私はいわゆる不良で、やる事なす事いつも親を困らせていました。

 その頃のワル仲間も今は髪が薄くなり、あの頃の凄みもどこかに行ってしまいました。私の少年時代の思い出の1ページです。

 

犬山支店 田中 昭弘

 昭和50年代半ば、急激な電子工学の進歩によりマイクロコンピューターが発売されました。機種はPC8001、日本語が使えないのでゲーム専用のコンピューターでした。

 私はそのゲームの面白さとコンピューターのメカニズムにとても興味を持ち、ハマってしまいました。

後継機のPC8801が出た時は感動しました。日本語が使えて、しかも対応プリンタまで出たので、すぐに買いに行って時間を忘れるほどに夢中になりました。

 今は最新のパソコンが普及していますが、昭和時代を振り返ると、とても懐かしく思います。

犬山支店 山田  薫

 昭和26年生まれの私が幼稚園から小学校のころは、木曽川での川遊びや野山に行って栗拾いをするなど、自然の中で遊んで遊んでいました。

また自然だけでなく、各務原や小牧に自衛隊の基地があるため、戦車や長い砲身を引いたトラックが旧国道41号を走る光景も思い出します。

 私が育った年代は、人間が自然を破壊して人工的になっていく高度成長期の土台となる時期だった為、よく遊んだ河原も段々とコンクリートで固められて行きました。

 昔に比べ、今の人は生き急いでいるのではないだろうかと感じます。

平均寿命は延び、何でもある豊かな時代になりましたが、テレビも車もお金持ちの家にしか無かった昔の方が良かったのかな?

と最近思うようになりました。

 

岡崎支店 仲井 雅之

 僕の昭和の思い出は、小学校5年生ぐらいの時に発売された任天堂のファミコンです。

当時の子供たちはほぼみんなが持っていたと思いますが、僕の家にも勿論ありました。

よく友達の家に4〜5人で集まってゲームをした記憶があります。

人氣のソフトはマリオブラザーズで、後にスーパーマリオブラザーズが出て子供から大人まで誰でも知っているキャラクターになりました。

小学生だった僕はすぐに夢中になってしまい、ドラゴンクエストシリーズにも夢中でした。大人になった今でもゲームは好きです。

岡崎支店 神谷 仁士

 昭和30年12月25日に私は生まれました。

私が小さい頃、道路はまだ一部しか舗装されていなくて、交差点ではお巡りさんが手信号で交通整理をしていました。

 真っ青な空の下、蓮華畑でカエルを捕まえたり、近くのドブ川には釣りの餌になる糸ミミズもいました。

 夏には夕立ちがあり、寝るときにはカヤを吊って寝ました。当時は物を大切にし、服も破れ、穴が開いてもツギハギをして着ていました。

 今から考えると物もなく貧乏でしたが、近所の人たちとも家族みたいに付き合っていて、ソースや醤油を貸したり、借りたりしていました。

 人を思いやる心がすごくあったと思います。

 

大高支店 鬼頭 利男

 私の育った昭和時代は、今の子供達のようにゲームなどない時代でしたので、外が暗くなるまで走り回ったり、木に登ったりしたものです。

ベーゴマをしたり、駄菓子屋でクジ引きをしたり、テレビも白黒で、今のような華やかさはありませんが、ささやかで平和な世の中でした。

家族が一つのテーブルを囲み、笑い声が絶えなかったような氣がします。

道路も車はたまに通るだけの、のどかな風景でした。

 今の時代より昭和の時代の方が物品は少なかったけれど、人々の心は豊かだった氣がするのは私だけでしょうか?

大高支店 大野三喜郎

 昔を思い出すと、小学校の頃は外でドッジボールか缶蹴りをして日が暮れていました。

 中学時代はブルースリーの鍛えられた肉体に憧れ、仲間の中で誰が一番早くブルースリーになれるか毎日腹筋をし、バーベルを使って肉体改造に励みました。

またジェームスディーンの容姿に憧れ髪型や服装も真似しました。

色気付き始めた高校生の頃、芸能界ではピンクレディーやキャンディーズが流行っていました。

 私はキャンディーズの蘭ちゃんが好きで、その頃付き合っていた彼女は蘭ちゃん似でした。

 その当時の言葉もディスコはクラブ、コンサートはライブ、スパゲッティはパスタ、ケーキはスウィーツと変わりました。

時代の流れを感じます。

 

四日市支店 近藤 実

 今から30年程前に、当時私が大好きだった女優さんが2人揃って出演する芝居が、名古屋の御園座でありました。

 公演内容は「近松心中物語」で、2組の男女がおりなす恋愛物語の話でした。最後の冬の雪が降るシーンでは、舞台に30cmくらい紙で作った雪が積もり、臨場感溢れる場面演出がされていました。

 芝居をしていた女優さんに対しては、市原悦子さんを「この人は役者さんだ」と感じ、太地喜和子さんを「この人は女の人だな」と感じた事を憶えています。この太地喜和子さんは、最初は水が怖くて顔も洗えなかった人でしたが、最後は車ごと海に飛び込んで亡くなってしまいました。

 人生の儚さを知った事件の一つでした。

四日市支店 近藤 勝彦

 昭和の思い出と言えば子供の頃の遊びです。

メンコ、ビー玉、牛乳の蓋取り、かくれんぼ、ドジョウ捕り、缶蹴りなど、その中でも牛乳の蓋取りの遊びが得意でした。

 当時牛乳の蓋は紙で出来ていて、自分の蓋の上に相手の蓋を重ねて、自分の蓋を右手の人差し指と親指で少し掴み、親指のツメで弾いて相手の蓋が裏返ったら貰えるという単純な遊びでしたが、当時はとても面白かった思い出があります。

今から考えるとほとんどお金をかけずに遊んでいました。

 またドジョウ捕りでは獲ったドジョウを身体に良いからと聞いて生のまま飲み込んでいました。

 

春日井支店 真鍋 光子

 今の若い人の万博のイメージと言えば2005年の愛知万博を思い出されるでしょうが、私には大阪万博の方が強い印象として残っています。
 1970年(昭和45年)に「人類の進歩と調和」というテーマで開催されました。

SFのような奇抜な建物や展示物が多く、特にアメリカ館、ソ連館、松下館が人気でした。

 私も2回行きましたが、共にすごい行列で数時間待ちの状態でしたので諦めて、空いているパビリオンばかりを見て廻りました。

ですからどこの国や企業のパビリオンだったのかはあまり覚えていません。
 高度成長真っ只中の時代の私の想い出です。EXPO70。

春日井支店 三浦 智仁

 私は「懐かしの昭和」を集めるのが趣味です。その懐かしの昭和というのは、ソフビ(ソフトビニール)製の玩具のことです。

 昭和時代に企業が景品として配ったものや、アニメのキャラクターをかたどったものなどを集めています。現在発売されている玩具と比べると、やはり質は悪いのですが、逆にその質の粗さが昭和らしくて愛着を感じます。

 子供の頃に持っていたものや欲しかったものを見かけると、ついつい購入してしまいます。このように今も私は昭和にこだわっています。

 

三好支店 深来 正昭

 テーマにはあっていませんが、昭和時代の思い出として私の心に深く刻まれているのが、1959年の伊勢湾台風です。

 先月3月11日 東日本大震災が発生した日に仕事を終えて帰宅し、津波の映像をテレビで見た時、ただ立ちすくんでしまいました。

 私の脳裏にはあの昭和34年9月26日にヒタヒタと押し寄せて来る高潮に追われながら近くの病院へ母や兄妹と避難した時のことが蘇りました(四国出身の父が室戸台風の経験から私たちを安全な場所へと判断し避難しました)。

伊勢湾台風では5,000人以上の死者、行方不明者が出ました。

その中には私の同級生も1人います。

忘れる事のできない昭和の出来事です。

三好支店 斉藤 大輔

 私の昭和の思い出はパソコンです。時期としては平成になってからですが、最初に接したのは昭和を代表するNECのPC−9800シリーズでした。

 このパソコンではプログラムの本を基に図形を描いたり、簡単なゲームを作ることができました。

さらにカセットテープにプログラムをセーブ(保存)やロード(読み込み)できる機能もあり、ロードする時に流れてきた独特の音は今も忘れられません。

 まだWindowsもない時代でしたが、この時の体験が私のパソコンライフの原点となって今に至ります。

 

車輌部 芳井 秀晶

 私が小学校の頃はテレビ、洗濯機、電話などは我が家にはありませんでした。

 乗用車などは夢のまた夢という感じで父の自転車とラジオがあるくらいでしたが、それが普通だと思っていました。学校から帰ってくると外で遊んだり、貸本屋で雑誌を借りてきて読んだりしていました。

 また畑に行ってモグラを捕まえたり、畑に作ってあったニンジンを全部引っこ抜いて農家の人に怒られたりと色々な思い出がありますが、便利さに馴れてしまった今、昔の事を懐かしむのは良いのですが、昔に戻りたいとは思いません。

 

労働組合事務所専従


 那須 登喜子

 昭和20年8月15日第二次世界大戦が終わりました。

敗戦国日本の主要都市はほとんど焼け野原と化し、両親は今まで築いてきた全てを失い、残ったのは子供だけ、私10歳の夏でした。

食べる物も着る物もない皆が貧しかった時代だけど、自分を“不幸”と思った事は一度もありませんでした。

“幸”“不幸”は受け止め方で決まります。必死で立ち上がろうとする大人の後ろ姿を見ていたからでしょうか?

徐々に復興してくるなか、中学・高校はのどかな田舎暮らし。

にわか雨の時には畑の里芋の葉を失敬し傘代わりにしたり、肥料のために作られたレンゲ畑を荒らし寝ころんで遊んだり、小説「風と共に去りぬ」の主人公レッドバトラーに恋したりと、思い出多い青春でした。

 


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