黒川支店 市野 巡

 一番思い出に残っている先生は、中学校1年生の時の担任だった「辻井先生」です。

中学校入学時に母に買ってもらった上履きを、学校の下駄箱に入れておいたら盗まれてしまいました。今では100円ショップでも買える時代ですが、当時は1年に1足を履き潰すまで履くほど貴重なものでした。

盗まれた事を母には言えず、かといって先生に言ったところで返ってくる訳でもありません。

そこでいけないと分かっていても、取られた悔しさから、違うクラスの生徒の上履きを盗んでしまいました。

その事が先生の耳に入ると、「自分が嫌だと思う事を、人にするな」と叱られました。
 その当時は反省する意識もありませんでしたが、社会人になり、年を追うごとに「人の痛みの分かる人間になれ」と教えていただけたのだと分かるようになりました。

 あれから50年経ちましたが、すばらしい恩師に出会えた事を幸せに思い、先生の教えに沿った人間になれるよう学び続けて行きます。

 

金山支店 安岡 徹

 私の一番学校が楽しかった時期は、大阪にいた小学校5〜6年生の時です。この頃は授業、部活(サッカー)、給食、何もかもがとても楽しかったと記憶しています。

その時の担任は、畑先生という女性の先生でした。

いつも笑顔で、ほめ上手で、何でものびのびとやらせてくれました。
 学習発表会という文化祭のようなイベントでは、5年生の時はウィリアムテルの父親の役、6年生の時は関ヶ原の戦いで切腹シーンがある大谷吉継の役に立候補し、自分のやりたかった役をやらせていただきました。

またある時は、生徒の中から一日先生を決め、授業をするという日があり、その時も立候補して一日先生をやらせていただき、授業をするために先生と打ち合わせした事を思い出します。

たくさんの楽しい思い出をいただいた畑先生には、本当に感謝しています。

機会があれば、先生を含め、その頃の友人たちと会いたいです。

 

西春支店 一宮営業所 佐藤 律子

 私が今まで出会った先生の中で、印象に残っている先生は、娘が小学校6年生の時に担任だった国枝(くにえだ)先生です。

普段はとても親しみやすい方でしたが、時には厳しく子供達を見てくださいました。懇談会では、先生のお子さんの話など楽しい雑談が多かった中、ふと真面目に「親がしっかりがんばっていれば、子供はちゃんと育つ」とおっしゃられたのを覚えています。

先生というより母親の先輩としての助言をたくさんいただきました。
 6年生だった娘もはや高校生となり、まだまだ気難しい年頃です。

娘の行動につい口を出してしまい、最後には口論になる事の繰り返しですが、先生の言葉を信じ、親の私ががんばっている姿を娘に見せられるよう、また、いつしか私の氣持ちを分かってくれる日が来ることを願い努力して行きます。


港支店 宮田 典史

 私は中学時代にお世話になった野球部の先生が忘れられないほど印象に残っています。

その先生はとても厳しい先生で、その厳しさから私は部活動へ行くのが嫌になり、何度も辞めようと思いました。

先生に辞めたい事を打ち明けた時、先生の言葉が私の胸に突き刺さりました。「辞めることはいつでもできるが、自分の好きな事から逃げ出すと、大人になっても同じ事を繰り返すだけだぞ!」そう言われた時、この先生は厳しいだけでなくちゃんと私の事を考えてくれているんだなぁと感じました。

 その事があってからは、悩み事や相談など、何でも話せるようになりました。大人になった今も、あの頃先生が言ってくれた言葉を思い出し頑張っています。

 

犬山支店 水野 裕和

  私が中学1年の時、音楽のテストを一通り終え、ボーッとしていた時の事です。ふと担当の先生が、落ち着きない様子で遠くを見つめ、片手を頬に当てた姿が氣になってしまい、私は先生の様子を何氣なく観察していました。

すると時間をかけ、ゆっくりゆっくりと小指が鼻の穴に少しずつ向かい始めました。

いつしか周りの生徒も氣づき始め、注目の的になっていました。

そしてついに接近中だった小指が鼻の穴にズボッと入り、脇目もふらずにほじり始めました。みんな笑いを押し殺すのに必死で、静かな教室にみんなの机の音だけがキシ・・キシ・・と響いていました。

その先生には、謙虚な姿勢の大切さを教えていただきました。

それ以外の事でも、とても面白い先生で今も私の記憶に残っています。

 

中川支店 岡 晃二

 休みの日に1カ月に2回ほどのペースで、趣味の“バンド”の練習に出かけます。

私が音楽というものにいつ頃から興味が湧いて来たのかを考えているうちに不思議な事に氣付きました。

小・中・高の12年の学生生活の中で、4年間も『音楽教師』に担任を受け持っていただいたという事です。

小学校では、5、6年の2年間連続で受け持っていただき、その間に「器楽部」に入部し、名古屋まつり等のイベントに数多く参加させていただき、人前で演奏する事の楽しさや喜びを教えていただきました。

それ以降“音楽”に深く引き込まれていき、30年近く経った現在でも、音を楽しめているのだと思います。

私はドラムを担当しているのですが、人との関わりも、リズム良く、心地良いものにできるよう、これからも腕を磨いて行きます。

 

大高支店 赤木 雄二

 私は長崎県の田舎で生まれ、育ちました。

小学校は全学年が各2組しかない小さな学校でした。

私が印象に残っている先生は、6年生の時に赴任して来ました。

顔はとんねるずの番組に出ていたキャラクターの「ホモオ田 ホモオ」にそっくりで、髭の剃り後が青く、少し間の抜けた顔をしていましたが大変な熱血漢で、特に音楽と体育の指導にはかなり熱を入れていました。
 音楽では吹奏楽部を作り、年末の大会では県で賞を獲るほどでした。

またサッカー部も立ち上げて、夏の県北大会で2位まで勝ち上がりました。

先生の指導方法は右手にメガホン、左手に木琴のバチを持ち、そのバチで失敗した人の頭を打つというものでした。

何度も失敗をする私は、頭の頂上部にコブができてデコボコになっていました。今の時代だったら親がうるさく、大変な事になっていると思いますが、私にとっては良い思い出です。

 今その先生は今、その小学校で校長先生をされているそうです。

 

春日井支店 三浦 智仁

 私の中で印象深い先生は小学校5年生の時の担任の尾田先生です、尾田先生はドラマに出てくるような熱血先生で、怒るととても怖いのですが、普段はやさしい先生でした。

そんな尾田先生との思い出の中で印象に残っているのが、先生から「夏休みに家の草刈りを手伝ってほしい」と言われ、友達5人くらいで先生の家にお邪魔しました。

草刈りをしているときに先生は学生のころの思い出話や社会に出てからの辛かったことや、嬉しかったことなど、いろいろな話をしてくれました。

その中でも、「経験することを大切に」とおっしゃっていたことを今でも時々思い出します。

今にして思うと先生は草刈りのために私たちを呼んだのではなく、いろいろな話をしてくださるために、呼んでくれたような気がします。


岡崎支店 福島 直樹

 「まじめにやれよ!」教室に先生の怒声が響く。私が小学校3年生の時の担任の先生の口癖でした。

授業中に寝ていると、生徒の肩をその言葉と共に、テープでグルグル巻きにした竹の棒で叩きます。

また授業中に談笑していると大きな音を立てて机を叩き、生徒に容赦しないとても怖い先生でした。

私も叩かれた経験がありますが、肩を叩かれた時は全身に電気が走ったような痛さを感じ、机を叩かれた時は、びっくりするのと同時に背筋がピーンと張るような緊迫感を感じました。
 授業中は厳しい先生でしたが、普段は教室で食べていた給食を、屋上で食べさせてくれるというやさしい一面もありました。屋上から景色を眺めながらの食事は、いつもより一段と美味しく感じました。

生徒と一緒に輪になって楽しく会話しながら食べる姿は、50代の普通のおじさんでした。今思い出すと懐かしい思い出です。

 

四日市支店 山川 好仁

 私の思い出に残る面白い先生は、小学校1年生の時の担任の先生です。

優しかった先生や人氣があった先生は時が経つと忘れてしまいますが、その先生は今も忘れる事が出来ないほど私の印象に残っています。

すごく大きな体の方で、「ブッチャー」という巨漢そのままのあだ名で呼ばれる程の先生でした。

そんな巨漢でもマラソンを走るのがとても速かったです。

でも走っている時には、お腹の肉がタプンタプンと揺れ、それを見ていた私達は大笑いをしていました。

その巨漢「ブッチャー」は怒らせるととても恐ろしく、顔を真っ赤にし、口からよだれを垂らしながら怒鳴る先生でした。

大人になって思いかえすと、恐ろしい先生だったけれど、たくさんの事を学ばせていただけたと思います。
 自分が親になった今、なかなかいないとは思いますが、子供に本氣になって怒ってくれる先生に出逢えたらいいなと思っています。

 

三好支店 斉藤 大輔

 私は16年間の学生生活の中で、さまざまな先生と巡り会いました。

その中で最も印象に残っている先生は、高校時代の歴史のH先生です。

先生は身振り手振りを交えた独特の語り口調が印象的でしたが、しばしば「生きた教材」として実物を持参し解説をして下さいました。

日本と中国の貿易の授業の時には、本物のフカヒレを見せて下さり、フカヒレが料理になるまでには大変な手間がかかっていることを知ることができました。
 また別の授業の時には、鉄でできている火打石を持って来られましたが、それを使い火を点けるのは難しく、先生も煙を出すのが精一杯で、そこから古代の人が火を得るのことは本当に大変だったという事も知ることができました。

先生の授業からは物事を知るためには教科書だけではなく、実物に触れる事も大切だという事を教えていただきました。

 

本社 営業推進本部 久保田 直

 先生と聞いてすぐに顔を思い出すのは、中学生の時、テニス部顧問だった川畑先生です。

毎朝6時からの練習に1分でも遅刻すれば容赦なくビンタを食らわせるとても厳しい先生に「下手くそ」だとか「能力がない」などと毎日のように罵られ、怒鳴られていたため、その当時は大嫌いでした。
 しかし先生は誰よりも早く練習に来ていたし、一日たりとも休む事はありませんでした。

また、誰に対しても厳しい姿勢で接っすることを信念とする方だったのだろうと今になって思います。
 先生にもいろいろなタイプの人がいて、優しく、楽しく、仲良く接していただいた先生もたくさんいましたが、なぜだか真っ先に思い出し、元氣なのかどうか氣になるのは、大嫌いだったはずの川畑先生です。
 でも真冬の寒い日に、鼻水をぬぐった手でビンタするのだけはやめてほしかったなぁ・・・。

 

車輌部 芳井 秀晶

 私の子供から高校生の時に少し変わった化学部の先生がいたと聞いたことがあります。

その先生は、部活動の実験という大義名分で、生徒と一緒に、部室でビールを作ったり、スライムを作ったりしていたそうです。

その部活動で作ったビールを息子が家にまで持ち帰ってきたので、未成年の息子に飲ますわけにはいかないと、私が美味しくいただきました。
 子供が通っていた学校では、その化学部の顧問以外の先生も個性的な方が多く、学校に改造車でくるチョイ悪オヤジ風の先生がたくさんいたそうです。ちなみに私の学生時代には、面白いと思えるような先生や思い出に残るような先生は、一人もいませんでした。そのせいか私は学校や授業が面白いと感じる事は少なかったように思います。

 
 

 


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