黒川支店 瀬古 剛正

 専門学校の時、全力で遊び過ぎたため、卒業後氣が付けばバイト先の土木関係の会社に入社していました。

社会人1年生という事で「一番キツそうな仕事をやっとけば、後々楽かな?」と安易な氣持ちで働き始めると、待っていたのは地獄の日々でした。

なかでも一番キツかったのは、真夏の宅地造成工事でした。

日かげなし、気温38度、車のエアコン故障中という今なら1時間ともたないコンデションでした。仲の良かったパキスタン人のカマル氏は「ボクノクニデハ40ドゴエハアタリマエ。

ヘイキ、ヘイキ」と言っていたのに、半日で熱中症になり救急車で運ばれて行きました。
 結局2年程続けましたが、生命の危険を感じ退社しました。

今まで経験した中であの時よりキツい仕事はありません。

 

金山支店 平野 喜睦

 私が初めて社会人になった時の思い出は、あまり良いものではなく、苦しい事ばかりで楽しい事は一つもありませんでした。

私は正社員としてホテルで働いていたのですが、休みもほとんどなく、勤務時間も長時間で上司や先輩に仕事を押し付けられ嫌々仕事をしていました。

何度もその会社を辞めようと思いましたが、従業員が少なく、私が辞めてしまうと他の人に負担がかかってしまうので、なかなか辞める事ができませんでしたが、身体を壊した事をきっかけに退社しました。
 嫌な事ばかりでしたが、今思えば忍耐力がついたのは、その会社のおかげなのかなと思います。

 

西春支店 岡部 太亮

 僕が初めて社会に出て働き始めたのは高校卒業後の18歳の時でした。

最初の頃は学生氣分が抜けず、社会に出てやっていけるのか不安でした。

でもそんな時に先輩にいろいろと教わっているうちに、私もその先輩のようになりたいと思うようになり、段々と責任感も持てるようになって行きました。

学生の頃とは違い社会に出て働くという事は簡単ではなく、たくさんの失敗もしました。

でも、その失敗を活かし成長する事もできました。
 今、大宝運輸で働いている事に誇りを持ち、初心を忘れることなく、責任を持って、毎日の業務を頑張って行きます。


港支店 榊原  力

 高校を卒業したと同時に自動車免許の取り消しを受け、路頭に迷っていたところ、親戚の方が声をかけてくれました。

その方が勤めている会社に就職させていただくという事で、名古屋から岐阜の山奥へ引っ越したのはいいのですが、友達もなく車の免許もない生活は多感な年ごろの私にとってかなりキツイものでした。
 そんな中救いだったのが、会社の先輩が何も分からない私を弟のように面倒を見てくれた事でした。

時には厳しくもあったのですが、それも私を思う兄の氣持ちだと思い接していました。そういった先輩や親戚の方との繋がりがなければ、今の私はどうなっていたかと考えると・・・。

人との繋がりに改めて感謝します。

 

犬山支店 長縄 秀隆

 私が初めて社会人になったのは、10年程前になります。

健康食品と自然食品の営業が仕事でした。店舗に主婦の方やお年寄りの方に来てもらって、健康食品や浄水器の説明をしてその人達に購入してもらえるように頑張っていました。
 世間では催眠商法などと呼ばれる仕事でしたが、購入していただいたお客様から身体の調子が良くなったと感謝されると嬉しくなり、その当時はやりがいのある仕事だと誇りを持っていました。

私の中では、社会人として初めて勤めたその会社で、マナーやルールを教えていただいたと思っています。

 

中川支店 関山 章三

 高校を卒業し、大学入試に失敗した18歳の私は、家業(袋物製造卸)を継ぐつもりで、あるハンドバック製造会社に丁稚奉公として入社しました。

44年前当時最初のお給料が4000円でした。それで時計を買い、家族で食事をしたら全てなくなってしまったのを鮮明に覚えています。
 仕事を覚えるために必死で働き、辛かった事、怒られた事も多々あったのですが、パートのおばさん達に可愛がられた事はとても嬉しく良い思い出です。

女っ氣もなく仕事、仕事の毎日で彼女も作れなかった事には後悔しきりですが、今の自分があるのは、あの当時の頑張りがあったからだと思います。

これらも年齢に負ける事なく、頑張って生きて行きます。

 

大高支店 内田 勇治

 私が社会人としてスタートしたのは、大阪万博のあった1970年でした。

世の中は東京オリンピック、大阪万博、札幌オリンピックと日本が世界に名を拡げ、産業界も自動車、家電、建築関連などが高度成長の真っ只中でした。

某電機メーカーにお世話になる事になり、豊川市に配属され、最初にいただいた給料が18,500円でした。

それで母親に何か送った事を覚えています。自分で最初に買ったものはステレオでした。
 会社ではスポーツも盛んで、毎日1〜2時間サッカー部で汗を流していました。

寮では全国の方言が飛び交っていました。優しかった先輩や上司ばかりで、恐い人はほとんどいませんでした。

40年経った今でも当時の直属の上司の方の言葉(教え)を覚えています。

それは「下駄をはいた人生は送るな」というもので、自分の力以上を無理に周囲に見せるな!それは自分を追い込むばかりであるということでした。

 

春日井支店 永井 幹大

 私が初めて就職をしたのは、産業廃棄物処理を行なっている会社でした。

その会社を選んだ理由は「春日井市内」「作業が簡単」くらいの軽い考えでした。その会社に就職して一番良かったと思えた事は、色々な経験をさせてもらえた事です。

トラックの運転、重機の運転、リフト操作、溶接、ユニック操作など本当にいろいろな事を教えていただきました。
 ただ、不器用な私はいつも上司の方に怒らればかりいたため、あまりやる氣になれず、嫌々仕事をしていたので、せっかくの経験もほとんど身に付きませんでした。

今振り返って、もっとしっかりやっておけば良かったと後悔しています。


岡崎支店 平岩 直樹

 私の社会人1年生の思い出は、今から8年前の2003年の時です。

当時私は地元岡崎市にある岡崎市民病院の中に入っている診療材料やリネン等を扱う委託会社に入社しました。

そこで私が行なっていた主な業務内容は、診療材料(手術用のゴム手袋や使い捨ての注射器、注射針等々)の在庫管理や搬送です。
 この会社で私がよく失敗したのが、商品の数の単位を間違えて発注し在庫を持ち過ぎてしまったり、それとは逆に発注漏れで欠品させてしまったりしたことです。

でも当時の職場の方は優しい人ばかりで、とてもお世話になりました。

その会社は2年程で辞めてしまいましたが、病院という環境の中で貴重な経験をさせていただきました。

 

四日市支店 川合 淳民

 今から約20年前、私が初めて入社したのは四日市市内の紡績会社(繊維の工場)でした。

パンチパーマで見た目が恐い先輩が同じ職場にいたのですが、最初の1カ月くらいはあまり話しができませんでした。
 しかし、ある日私が機械の操作ミスをした時、その先輩が助けてくれたことをとても良く覚えています。

その先輩は今でも街で会うと声をかけてくれます。見た目とは違い、本当に頼りになる先輩だったなぁと時々思い返します。

 

三好支店 柚原 幹男

 私が大宝運輸にお世話になったのは、昭和46年の3月、19歳の時でした。

最初は金山支店(当時は営業所)に入社させていただいたのですが、その頃はまだ今の本社ビルは工事中で金山営業所は木造2階建てでした。

当時は今のように安全活動もありませんでした。
 そんな当時の先輩で私の記憶に残る先輩が2名お見えになります。(1名の方はまだ大高支店で現役でがんばってみえます)その2名の方に配送のイロハを教えていただきました。

そんな私も今は指導する立場になり、できるだけ分からない人が理解できるように教える事を心がけています。

昨年の11月度で定年となり、パートナー社員となりましたが、今まで41年間大宝で培ってきた事を後輩に教え、頑張って行きますので、今後ともよろしくお願いします。

 

本社 営業推進本部 金山 健太

 忘れもしない社会人初日、前日に会社までの交通手段を確認し、当日も予定通りに起き、新しいスーツを着て、コーヒーを飲みながら新聞を読む。

自分のイメージ通りに朝を過ごし、いざ出勤。
 予定より早く出発し、行く先は野並バス停から徒歩で10分の会社。

バスを乗り継ぎ「野並行き」に乗る予定でしたが、バス停に「野並倉庫行き」が停車していたため、方向が同じだからいいだろうとそのバスに乗る事にしました。

しばらく走ると予定の道からバスがどんどん外れて行くため、慌てて聞いてみると目的地には止まらないとの事。
 一番近くの駅で降りましたが、どうしたらいいのか分からないまま、時間だけが刻々と過ぎ、結局自力で会社に辿りつけず、初めて会う先輩に迎えにきていただきました。

全体朝礼をするために40人近くの人を待たせてしまったという苦い思い出の社会人初日でした。

 

車輌部 加藤 義文

 高校を卒業し社会人になったのですが、最初は期待と不安でいっぱいでした。1カ月間仕事をして初めてのお給料で、念願の出店のみたらし団子を大人買いしたり、マクドナルドでドライブスルーをした時は「あぁ私も社会人になったんだなぁ」と思いました。
 職場の人たちはみんな良い人ばかりでしたが、中にはすぐに怒る先輩もいて、耐えて仕事をしていましたが、最後はケンカ別れのように辞めてしまいました。

今思えば私に対する優しさから厳しく怒ってくれたのかなと思います。

恥ずかしながらその当時の私はまだまだ子供でその事が分かりませんでした。いろいろな事を学び、これからも社会人らしく頑張って行きます。

 
 

 


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